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完全を求める不完全な日々・・・

こんなことがあったんだよ・・・「1」



















こんなことがあったんだよ・・・









1「出会い」



旦那と始めて逢ったのは夏


背の高い人だな。。。それが第一印象




二度目は平日ファミレス・デート


ちょっと遅れて、つっかけ履いてきた


緊張感ないの? ちょっとガッカリ




三度目のデートは買ったばかりの新車で六甲山


真っ白なカッターシャツからはお日さまのにおいがした


あの日はとても暑かったね・・・





わずか5回目のデートでプロポーズ


自分を買ったばかりの新車に例えて


「俺はこの車に良く似てる廉価車(お手ごろ価格で一般的って言う意味かな?)やけど


燃費が良くて壊れにくい、そして小回りが効くのが自慢や。 


世間で言う普通の生活が10やとしたら


8か9の生活しかさせてあげられないかも知れないけどそれでも良かったら結婚して欲しい」


大風呂敷を広げるよりはずっと好感が持てた





それまでのわたしは


友だちと飲みに行くとか忘年会や新年会などで


夜、外に居るといつも落ち着かない不安な気持ちになっていた


でも、不思議と旦那と居る時はどこに居ても何時でも安心できた


好きとか嫌いとかよく判らなかったけれど


この人について行こうと決めた


一年後、わたしはどんな生活をしてるんだろう・・・?


少しの不安を抱きながら






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2 「始まり」





出会って8ヶ月後に結婚


何とは無い普通の結婚式をすませて


2DKの平屋の借家


家賃4万3千円


旦那は一人っ子、だからいつかは同居と判ってはいたけれど


義両親に気を利かせてもらっての二人だけの新しい生活が始まった


エアコンも湯沸かし器さえも無い一からの出発


ダンボール箱をひっくり返してテーブルにしたっけ


でも、そんなことさえオママゴトみたいで楽しかった






そうそう・・・こんなことがあったね


夜中にトイレに起きたわたし、用を済ませて寝室に入ろうとすると


「ずうずうしいなぁ。。。 入ってくるのか」チッ・・・と舌打ちする旦那の声


えっ!!!! 部屋に入っちゃいけないの??


この人今まですご~く優しかったけどこれが本性??


幼い頃から父親の暴言や暴力に囚われていたわたしは


恐怖で固まった



「なんや、お前か・・・


奥の部屋まで入ってくるなんてなんてずうずうしい泥棒やと思って」


「ごめんなビックリさせて・・・」いつもの優しい笑顔



よかった・・・一年前の不安が的中しなくて本当によかった








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3 「芽生え」






3月の末に結婚、6月には長男を妊娠



お互いの両親ともなかなか子どもが出来なくて


わたしの両親は養子でももらおうか・・・と話した合ったこともあったそうだし


旦那の両親に至っては親戚の子どもを家において実の子どものように育てていたらしい


だから自分たちもそうなるではないかと、とても心配していたので


妊娠の報告を心から喜んでくれた




妊娠が判って程なくの夜


気分が悪くなってトイレへ


つわりが始まったのかな?


吐き気でお腹に力が入ったためか下半身に違和感


下着を下ろすと大量の血と塊が ボタボタ・・・と落ちた


トイレットペーパーで包んで灯かりの下でかざしてみる


生理? わたし妊娠してたっけ?


いや、いや、今日産婦人科に行ったとき11週目だって言われた


じゃあこれ赤ちゃん? 赤ちゃん出てきちゃったの?


そういえば診察の時に


「卵巣が腫れてて出血もあるみたいだから安静にしてください」って先生言ってた


あの時間から出血してたって事は・・・・・・・・・


血は空気に触れると固まるからこれは赤ちゃんじゃない


絶対赤ちゃんじゃない!!自分に言い聞かせ


ためらいながらもその塊を水に流した





病院行かなきゃ慌ててトイレから飛び出す


旦那に事情を話すとその場にへたへたと座り込んでしまった


ホント・・・男の人ってこんな時は役に立たない


自分で病院に電話して事情を話す


真夜中の緊急入院・・・・






幸いなことにアレは本当にだだの血の塊だったようで


点滴と安静で出血は止まった






でも、これは始まりに過ぎなかった








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4 「結石」






流産の兆候もおさまって退院して安心したのもつかの間


背中やわき腹に違和感や痛みを感じることが多くなった


「便秘かな?妊娠中はなりやすい」って聞いたことがるし・・・と思っていたら


突然、七転八倒の痛み


家にひとりだったので病院に行くことも出来ず


痛みでのた打ち回ったあと何時間か気を失って


目が覚めてトイレに行ったら血尿と一緒に石が出てきた


「尿路結石」そんな病気があることも知らなかったので


どうして石がこんなところに??? でまたトイレに流してしまった


後で医師にそのことを話したら「赤ちゃん生む前に石産んじゃったね」と笑われた


流さずに置いておいたら長男に「あんたのお兄ちゃんやで」と冗談のひとつも言えたのに


残念なことをした・・・









妊娠中期にさしかかったころ


調子がおかしくて診察を受けると



「赤ちゃんにちゃんに酸素がいっていなくて危険な状態なので、即入院」と言われた


入院の手続をして診察室を出ると以前流産しかけた時同じ病室だった双子ちゃんのお母さんが


「赤ちゃん元気!?」と笑顔で声をかけてきてくれた





タイミングが悪かったんだよね


今さっき、医師に「赤ちゃん死に掛けてる」って聞かされた直後だったから


待合室の真ん中で大きな声を上げて泣き出してしまった


そして、そんな彼女をフォローをすることも出来ずわたしはそのまま病室へ






ビックリしただろうな


「赤ちゃん元気!?」って聞いてきただけで何も悪いことなんてしてないのに


わたしを泣かしてしまったみたいに他の人に見られてしまって・・・


彼女も妊娠中、不安定な精神状態は察しがつく




出産時期も違っていたのでその後彼女会うことは無かった


多分もう会うことも無いだろうし


もし街で偶然会ったとしても、もう顔もおぼろげなので判らないだろうけれど



出来れば「あの時はごめんね・・・」ってあやまることができたら


後味の悪い思い出が少しはましになるのに








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5 「妊娠中毒症」









赤ちゃんに酸素がいかなくなった原因は


身体が浮腫みすぎて私自身が酸素を取り入れるのが上手くできなくなったためだった


けれど、これも何日間かの点滴で快方に向かいほどなく退院することができた







妊娠後期になるとにかくお腹が張った


足を伸ばして眠ることができない


いつも丸虫のように丸まって眠った




妊娠中毒症もさらに進んで


手足だけじゃなく首まで浮腫んでしまいパジャマの第一ボタンが閉まらなくなった


もちろん即入院





長男を出産するまで何度入院を繰り返したことか


「いつどんな風に悪くなるか判らないので入院しててくれた方が安心やからいいんやで」


入退院を繰り返すたび、恐縮するわたしに


旦那はこんな言葉を優しく繰り返してくれた



妊娠の時だけでなく病気で入院した時も


旦那は毎日必ず病院にお見舞いに来てくれる


産婦人科病棟、消灯時間ギリギリ


怪訝そうな顔をする妊婦さんと看護士さん


大きな体を小さくしながらこっそり病室に入ってくる


照れながらもにっこりと微笑むその笑顔に何度助けられただろうか



旦那が来るのを心待ちにしている気持ち裏腹に


「大変だから無理しなくていいよ」と言ってみた


「お前は寂しがりややからなぁ~」と笑って答える



多分世の中でわたしのことを一番わかっているのは旦那なんだろうな。。。感謝しなくちゃ










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6 「不安1」







出産にあたっては不安なことがいっぱいあった




19歳から22歳まで椎間板ヘルニアを患って入退院を繰り返し


長い時は3ヶ月も入院した



まだ若かったわたしは手術と言われても身体に大きな傷をつくる決心がつかず


良いといわれる病院を捜しては幾度となくレントゲン撮影や検査、入院を繰り返した





結局、某大学病院で初診のその日に手術を勧められ


普通の健康な身体に戻るためにはもう逃げることはできないんだな観念して


そこで手術を受けることを決心した







手術は本当に大変だった・・・


つぶれた椎間板が石のようになって取りにくく予想以上に時間がかかり


途中で麻酔が切れて目が覚めた


「痛いです!!!!」と叫んだけれど全身麻酔だったので呼吸器で声にもならず・・・


そうしているうちに強烈な痛みで気を失った






術後も激しい吐き気で身体を大きく動かしてしまい傷から大量出血


夜中だったので看護士さんも気がつかず


朝になる頃にはベットのマットが血で染まるほどの多量出血で危険な状態になっていた


輸血をしようにも身体に血がほとんど残っていないので手足の血管を捜すことができず


「どうしても駄目な時は髪の毛を剃ってアタマの血管から入れるから剃っていい?」って言われたけれど


その頃にはわたしもう極度の貧血状態で朦朧として意識がなくなってしまった


さいわい足の甲から輸血することができたそうで二十歳の乙女の黒髪は守られることとなった(笑










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7 「不安2」









数日後、夜中の12時過ぎに担当の医師が手術着を着たままわたしの病室にやってきた


さっきまで手術していたそうでそれにかかりきりで


今日のわたしの様子を見ていなかったから


心配して見に来てくれたのだそう


「先生も大変ですね」とわたしが言ったら


「人のことが心配できるようになったからもう大丈夫やな」と笑って帰っていった







また数日後、もっと元気になったので売店に行こうと廊下を歩いていたら


看護士さんがわたしの顔を見るなり走り寄ってきて


「もう歩けるようになったの?一時期はどうなることかって心配してたんよ、よかったね」と


手を取って泣きながら喜んでくれた






当の本人はあまり自覚は無かったけれどそんなに悪かったのか・・・・とあらためて驚いた



わたしが今こうして普通に生活できているのは


この大学病院のおかげだと感謝している












それでも


輸血、手術、何回もの造影剤を使っての検査、


そして一番の心配は大量のレントゲン


(トータル300枚ぐらいは撮ってるんじゃないかな?)


大切な子宮や卵巣あたりが軽い被ばく状態になっていたことは間違いなく


ちゃんとした赤ちゃん生まれてくるのかな?


手や足が無かったらどうしよう?


常に不安が付きまとった、妊娠期間だった











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8 「出産」








それでもビックリするぐらいお産は楽だった



「産まれるのは明日の午前中でしょう」の予想を裏切って


半日も早い夜中の12時半の出産


まだ産まれないだろうと自宅に帰ってしまった医師がとんぼ返りするほどの


超スピード


超安産





3464g・・・冬の嵐の夜、一晩中分娩室の換気扇が風でガタガタと鳴っていた


ちゃんと指は5本あるのかな?一番にそのことが心配になった


超安産だったとはいえ陣痛が始まってから丸二日40時間以上眠っていない


眠気と疲れで目がかすむ


その目を凝らして産湯を使わせて貰っている長男の手の指を数えようとするのだけれど


手も足もとても小さくてくよく見えない


それでも、


1、2・・・


1、2、3・・・と


見えない目をゴシゴシこすって何度も数えなおした



今考えれば、のんびり産湯をさせて貰っていること自体


何も問題が無いって事が判るんだけれど







「ハンサムな赤ちゃんよ」と看護士さんが長男を隣に寝かせてくれた


ハンサム・・・


ハンサムかぁ。。。


指があるかどうかの心配のからの超格上げの褒め言葉






「案ずるより生むが易し」まったく昔の人はよく言ったものだ















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9「拒絶」








長男が無事に産まれてみんなとても喜んでくれた



旦那が始めて長男を抱いた時の体の硬さといったら


ガチガチでまるでねじまきのロボットみたいだった



わたしと言えば、産まれるまでほとんど入院していたし


安静と不安の毎日で長男が産まれた後のことをほとんど考えていなかったので


どうしよう・・・少々途方にくれた




「仕事が入ってるから」実の母にはこんな言葉で先手をうたれた


予定日より二日早い出産だったとは言えこの時期に仕事の予定を入れるなんて


里帰りなんてさせるつもりなんて全く無かったんだな・・・実感した





真冬の一月、はじめての子度育て


家には暖房機やクーラー、湯沸し機さえも無い


どうしよう・・・・




そこへ旦那が「ウチの実家にくればいいやんか」と助け舟を出してくれた


普通は自分の実家に帰るのに旦那の実家に?


「え~~~ いいのかな?」


母さんには俺から上手く言っとくから


「いいやん別に」と ニコッと、くったくなく笑う旦那



授乳にもく浴におむつの洗濯・・・・なにより寒い部屋


実母に拒絶された分他の人に甘えたいという気持ちや


あてつける気持ちも少しはあったのかもしれない



甘えてもいいのかな?


甘えちゃおうかな・・・



気持ちはすぐ決まった















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10「色の無い部屋」







退院の日は記録に残るほどの大雪だった



赤ん坊の服やミルクを準備してから旦那の実家に帰る予定だったので


まず、自分たちの家に帰った



早速始まる3、4時間ごとの授乳


哺乳瓶をお湯でぐつぐつ煮ながら部屋を暖めるけれど


白黒の景色のような寒い部屋はちっとも暖まらない


赤ちゃん寒くて死んじゃうんじゃないかな・・・・


息をしてるか何度も確かめる


どこまで大丈夫なのかどこまで駄目なのか


何も判らない初めての子育て



良かった・・・・旦那の実家にお世話になることができて



寒い色の無い部屋の中で心からそう思った











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11「ゴキブリ」









旦那の実家はとても暖かかった



上げ膳に据え膳、もく浴の準備


オムツの洗濯までは申し訳ないので紙おむつにした


わたしは赤ちゃんの世話と授乳だけしていればよかった



お義父さんは孫がいることが嬉しいらしくて何かと世話をやいてくれた


お義理母さんも大変だけれど喜んでくれているのだとばかり思っていた


でもそれは、わたしの都合のいい思い違いだった




退院して一週間もしないある日の夕食


食事と一緒に親指ほどの大きなゴキブリが乗せられてきた


そう言えばここ何日間かお義母さんの態度がよそよそしかったような・・・





何かの間違いで悪意が無くてたまたまお盆に載ってしまった


そう思いたかったけどあんな大きなもの絶対気づかないはずないし


何年か後に次男の妊娠報告をした時


開口一番、「もう産まれても連れてこんといて」って言われたのが何よりの証拠だった





その時のわたしの気持ちはどんなだったんだろう・・・と思い返してみると


「ごめんなさい」だったように思う


実の母に拒絶されたことを母とはいえ義理の人に押し付けて


さも、「孫の顔が毎日見られるんだよ」言い換えればこれも親孝行のひとつかも・・・なんて


思い上がっていた傲慢な自分


お義母さんにとってはしんどくて苦痛な毎日だったんだろうな










ほとんどの人が当たり前のようにできる里帰りさえできない自分


愛されていなんだな


愛されないのは自分のせい


わたしには愛される資格が無い



こんなわたしで「ごめんなさい」


こんなわたしがお母さんで「ごめんなさい」



自分ばかりを責めて心の中で「ごめんなさい」繰り返した












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12「帰宅」




残業から帰ってきた旦那に「今すぐ家に帰りたい」と訴えた



何を急に言い出すんや とビックリする旦那にゴキブリのことは言えなかった






「我侭なやつ」といいながらも次の日の夕方には家に連れて帰ってくれた



帰るときお義母さんに


「自分勝手なことばかりしてすみません、気を悪くしないでください」と言うのが精一杯だった


怪訝そうな顔をするお義父さんと旦那


女二人だけが分かっている内の事情





わたしの場合酷いことをされても


相手を責めるよりも自分を責めてしまうことの方が多い


自分の非を探して見つけてそれを一番の悪者にしてしまう





態度や口で怒りを現してしまうほうが


気持ちもすっきりするし後にも残らないのに


だから、こんな生き方やめようと現在努力中なのだけれどなかなか直らなかったりする




ゴキブリ事件以来少しずつでも出ていた母乳が全くでなくなったのには困ったけれど


わたしの居場所はここしかないんだと心を決めたら


寒い家もそれほど居心地は悪くなかった






初めての子育てで戸惑うこともたくさんあったけれど


若かったということもあって産後の身体もみるみるうちに回復して


旦那とわたしと長男、三人で穏やかで楽しい日々が続いた











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13「二回目の妊娠」









長男の時あれだけ産むのが大変だったのだから


もう妊娠はしないと思うのが普通なんだろうけれど


旦那が一人っ子ということもあって


兄弟は最低でも二人は欲しいというのが夫婦の同じ気持ちだった






長男が一歳を少し過ぎた頃二回目の妊娠の兆候


二歳歳違い・・・間隔もちょうど良い



わたしは妹と六学年もあいだが開いているので


中学校入学と小学校入学が同時期


年齢が離れすぎていてまったく、姉妹(きょうだい)という感じがなく


年が近く仲良くしている姉妹を見ては羨ましく感じていたから


二歳違いの年齢が理想のように感じられた



それに子どもが二十歳になったときの自分たちの年齢を考えて


できるだけ早く産みた終わって


後の夫婦の時間を大切にしたいという気持ちも大きかった








妊娠検査薬で調べると大当たり


できれば今度は女の子がいいなぁ。。。



冬になったら、母娘(おやこ)肩を並べて好きな人のためのマフラーを編む


わたしの幼い頃からの夢





叶うかな・・・・ほんわかした暖かいものが心の中に溢れた







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14「甘い考え」







その日は朝からとても気分が悪かった


でも、以前から気になっていた育児サークルの見学会があった


まだ病院で妊娠の診断して貰ってないけど七週目ぐらいかな?・・・大切な時期


でも、どうしても見学しておきたい




長男の時にあれだけいろいろあってもちゃんと産まれたんだから


今度も少々のことでは大丈夫!


甘い考えで気分の悪い自分を励まし出かけた






案の定、その夜から出血が始まった


近所の人が通っていたイマドキの産婦人科病院


妊婦さんのためのエアロビスタジオもあるんだって


できることなら、今度はちょっとお洒落なところで楽しく産んでみたい


そんな漠然とした淡い期待を持ってそこで診察を受けた



「週数のわりには赤ちゃんが育っていない・・・


とにかく安静に何も無ければ四週間後にきてください」それが医師の言葉だった





止まらない出血・・・やがて大量に


お洒落なのはこのさいあきらめて手堅くて名高い長男を産んだ病院に行こう




またまた、真夜中の緊急入院となった









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15「流産」







24時間点滴


ベッドの真横にポータブルトイレ


とにかく絶対安静



それでも流れ出る赤ちゃんは止められなかった







始めての妊娠からしてみれば


一歳の長男をしょっちゅう抱っこしてるし


家事だって格段に増えたから


身体への負担は確実に増えている


そんなことを考えないで


何が「前は丈夫だったから今回も大丈夫」だなんて勘違いもはなはだしい





何よりも育児サークルに行った日


あんなに気分が悪いって赤ちゃんがサインを出していたのに


ごめんね


ちゃんと産んであげられなくて本当にごめんなさい







次の日、残った赤ちゃんのカラダをかきだす手術を受けた


五月五日・・・こどもの日


なんて皮肉なめぐり合わせ









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16「影膳」










悲しかった


人生の中でも指折り数えるほどの悲しい出来事だった





一番思ったことは


わたしの中で確かにあの子は居たのに


誰の目に触れることも無く知られることも無く居なくなってしまったこと


それがあの子にとって一番かわいそうに思えた


わたしだけは一生絶対忘れないと心に誓った







毎晩の夕食には影膳をつくった


何も判らない長男は不思議そうな顔をした


旦那はあえてそのことには触れずに接してくれた








退院して3、4日過ぎたころ


突然、実父から電話がかかってきた


「1万円貸してくれへんか」





・・・父は昔からこういう人だった


3ヶ月もの長期入院している娘の病院に


ギャンブルで遊ぶためのお金をせびりに来れる人



「貸してくれ」と言っても帰ってくるあてのないお金


それでも断ると何をされるか判らないので怖くて駄目だとは言えないわたし




あの頃は若くて貯えも無かったし


流産のための治療や入院代で手持ちのお金はほとんど無くなってしまっていた








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17「無言」










千円札7、8枚に百円玉、十円玉、五円玉・・・


1円足りなくてもいけない、そんな強迫観念にかられながら


家中のお金をかき集めなんとか寄せ集めの1万円を作り上げた


そして、それを茶封筒に入れ長男と一緒に駅に向かった








改札口から出てきた父は


孫のあたまを撫ぜることも無く、流産直後のわたしの体調を気遣うことも無かった



お互い無言だった


ただ、押し付けるように手渡し手渡した茶封筒がじゃらじゃらと音を立てた


そうしてわたしは逃げるようにその場を去った









涙は出なかった


むしろ小銭の寄せ集めでもちゃんと父の要求を果たせたという


・・・・そう、ちょっと難しいゲームをクリアできたそんな達成感さえ感じていた











帰り道の公園で長男と遊んだ



独身の頃こんなことがあると


言いようの無い不安がこみ上げてきていつも泣いていた


身をおく場所の無い深くて暗い 孤独感







でも、今は旦那や長男が居てわたしには自分の居場所ができたから


少しは強くなれたのかな




「お母ちゃん強いやろ」長男に向かって言ってみた


まだ2歳にもならない長男は何も答えないけれど


ニコッって笑ってくれた・・・・ありがとう大好きだよ










わたしの大切な居場所


その場所を失うことがその時のわたしの一番の恐怖だった
















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18「父の怒り」








家に帰るとすぐに電話が鳴った


「お前、俺をナメくさっとんのか!」怒り心頭の父からだった


どうやら1万円の中に小銭が入っていたことが小馬鹿にされたようで気に入らなかったらしい



・・・と言うか、今思うと


俺をこんなに馬鹿にしやがってと怒りにかこつけて


「だからお金は返さない」という結論に持って行きたかったのだろう


そうして「お前の家庭をメチャクチャにしてやるから、覚えとけ!!!」そう言うと一方的に電話は切れた






ゲームはクリア出来てなかったんだ・・・なんて勘違い


メチャクチャってどんなこと?


どんなことするの


家に火でも付けに来るの


長男になにかするつもり






父はいつも気に入らないことが有るとわたしを叩いていた


突然暴れだして家のものを壊してまわることも度々だった


だから、暴力はお手のモノ








やっと手に入れた大切なわたしの居場所


それをメチャクチャにするだなんて


恐怖で足がすくんだ








旦那には言えなかった


こんな人が親だなんて恥ずかしくて言えなかった


何をされるんだろう・・・考え出すと夜も眠れなくなった








そして、この頃から体調がおかしくなり始めた


百日咳から喘息


そしていくら食べても満腹感を感じなくなった


食べて、食べて、食べて・・・一日中食べても満たされない異常な状態








ただ、お腹がいっぱいになっているときだけは


流産で居なくなってしまった赤ちゃんのことや


ゴキブリ事件のこと、1万円事件のことは遠いことのように感じられて気持ちが少し楽になった










今考えるとこれが心の病気やDM(糖尿)の発病だったのだけれど


そのころのわたしにはソレと気づく知識も余裕もなかった

















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19「悪夢」









父に何かされたのかと言えば、何もされなかった


そうだよね、大きな事件とか起こせる人なら


娘に1万ごときを貸せだなんてなんてちまちましたこと言わないだろうし


そこが父が父である由縁なのだろうし


考えすぎて身体までおかしくて・・・一体なんだったんだろうその当時はちょっと笑えた






でも、その時はよくわからなかったけれど


父への絶対なる憎悪や憎しみは


今までのソレとは違い格段に大きく深く、暗くなって


わたしの中に根付いていた






後に鬱になって何ヶ月もずっとずっと長いあいだ父と殺しあう夢をみた


今になって思うと「お前の家庭をめちゃくちゃにしてやる」と言われて


やらなければやられる・・・そんな極限の心理状態があの毎晩の悪夢を生んだのだと思う








今はもうこの世には居ない父


亡くなって十年以上も経つのに


未だに父が出てくる夢はいろんな意味で悪夢だ













父である


実の父である


なのにどうしてわたしは


こんなに父を怖れて憎まなければならないのだろう








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20「心の口癖」












そして、流産から一ヶ月が過ぎたある日


思考が、ある到着点にたどり着いた






そうだよ、同じ赤ちゃんをもう一度産めばいいんだそうすれば何もかも解決する


彷徨う悲しい水子だって居なくなる


(わたしが勝手に思い込んで作り上げたイメージなのだけれど)






人って・・・・不思議なんだよね


ちょっとでも心を楽にしたいから


辛いことがあるとそれをチャラにするために


あり得ないことや出来もしないことを考え付く










「今度こそ大事にしてちゃんと産むから、もう一度わたしのお腹の中に戻ってきて」


それがわたしの心の口ぐせになって陰膳はいつのまにかやめていた













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21「穏やかな日々」








育児サークルや公園にも通ってママ友もたくさん増えた


ちびまるこちゃんのオープニング主題歌を聞くと


ぴょんぴょん飛び跳ねて踊る長男を心から可愛いと思った







休日にはお弁当を作って公園に出かけた


不器用ながらも自分なりに一生懸命子育した


親子三人幸せで穏やかな日々だった








・・・・けれど


居なくなってしまった赤ちゃんのことはいつも心の片隅にあった







流産は癖になるって聞いたから一年間はお休みしよう


次の年からは毎日基礎体温を測って排卵日を計算した




それでも、二年たっても、三年目に入っても妊娠の兆候はあらわれなかった









年齢的なことあるのかなぁ・・・


流産の手術したもんなぁ・・・あの時どこか身体に傷をつけてしまったのかも


半ばあきらめの毎日を過ごしていた













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22「叶」








そんなわたしに体調の変化があったのは三年めの秋だった






長男の時「ゴキブリ事件」のこともあり母乳がほとんど出なかったわたし


まわりの人からもいろいろ言われ


自分でも母乳の大切さを知ってから


それがコンプレックスとなっていた


だから、今度は「産後母乳に力を入れていると聞いた市民病院で産もう」そう考えていた







「おめでとうございます 七週目です」


長年願っていたことが叶った時の喜びはひとしおだった









長男にはわたしのお腹を指差し


「赤ちゃんが居るんだよ、だから 大事・大事」と教えた


今まで一人っ子のように、蝶よ花よで育ってきたのでそんな状況に戸惑う長男だったけれど


とにかく、お腹の中の赤ちゃん一番で過ごした







でも、次の診察日に驚愕の現実を医師からつきつけられることになろうとは


このときは夢にも思っていなかった












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23「発病」








「たいへん血糖値の高い状態で妊娠初期を過ごしているので胎児の奇形の可能性が高いです。


アナタの身体のことも考えると安全なお産は保証できません。だから中絶をすすめます。」


医師から言われたのはこんな言葉だったように覚えている




流産のあといろいろ有って身体がおかしいと感じていたのは事実


でも、まさか糖尿病(DM)になっていたとは・・・





母も50歳代始めに糖尿病(DM)になり以来毎日インスリンを打っていた


母方の親戚が5人集まれば3人は糖尿、そういう家系でもあった



自分もいつか発病するかも・・・漠然と考えてはいたけれど


まさかこんなにはやく20代で発病していたとは・・・






せっかく赤ちゃん戻ってきてくれたのに


わたしの病気のせいでまた失くしてしまわなくてはいけないの・・・?



奇形をもって産まれてくる可能性がとても高いと忠告されたのに


無理して産んで、本当に奇形児が産まれてきたらわたしちゃんと育てられるの・・・?





心は大きく揺れた









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24「迷い」








悩んだ・・・


悩んだ・・・


悩んだ・・・






早く決めなければ中絶できる期間を過ぎてしまう


焦る気持ちが間違った判断をしてしまうような気がして怖かった






もちろん、旦那とも何度も何時間も話し合った


でも、結局最後にどうするのかを決めるのは自分だと言うことはよく判っていた









失う悲しみはもうしたくない


だから、産もうと決めた



それに元気な赤ちゃんが産まれてくる可能性だってある


もしお腹の中の赤ちゃんが健康だったらわたしは大きな間違いをしてしまうことになる


せっかく戻ってきてくれた大切な命なのに



・・・もし、もし、仮に障害や奇形の有る子が産まれてきても


その時は頑張ってちゃんと育てよう・・・腹をくくった









と・・・きれい事を言うとこんな感じだけれど


今冷静になって考えると


自分でなにも事を起こしたくなかっただけだったように思う


中絶するための決断、手続き・・・


行動をおこす勇気が湧かなかった



ただただ、怖かった


アタマを抱えてうずくまっているうちに時間だけが過ぎていき


中絶できる時期を逃してしまったそれが本当だった




でも、もう産むしかできないという時期に入ってしまってからは


気持ちが座ったと言うか


今からでもお腹の中の赤ちゃんや自分にとって


やらなければいけないことは何だろうかと


少し前を見られるようなった







やはり母は強し・・・なんだろうか












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25「ハイリスク」







これから自分はどうしたらいいのだろうか・・・と色々なことを考えた結果


まず長男を産んだ病院で長男をとりあげて貰った医師の診察を受けた


診察結果は先の病院と同じようなものだった






もう中絶できる期間は過ぎていたので中絶もできないわたしを前にして


医師は露骨に不快な顔をした


でも、それは無理も無いこと






長男出産時の度重なる不調での緊急入院、その後の流産


他の病院への浮気心・・・


そして中絶する時期も過ぎてしまった問題のある胎児


病気を抱えた母体


リスクだらけで大変なお産になることは誰の目から見ても明らかだったから









でも、長男を無事に産んだこの病院でこの医師にとりあげてもらう事で


あの時と同じようにお腹の赤ちゃんも元気に産まれてきてくれる気がしたから


どんなに嫌がられても迷惑がられてもどうしてもこの病院で産みたかった








ホント・・・今思うと願掛けみたいな


一か八かの賭けみたいな


馬鹿な考えだったんだけれど











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26「向き合う」







病気の程度を見極めるためにすぐに検査入院




食生活の見直し


厳格なカロリー制限


(たくさん食べて血糖値が上がってぼわ~っとしている時だけは


不安を忘れられるなんて甘いこと言っていられなくなった)



グルテストセンサー(血糖値を自分で測るための機械)の使い方を覚えること


糖尿病(DM)と言う病気の勉強


DMの妊娠への影響


(血糖値の大きな変化がお腹の中の赤ちゃんには大きな負担になるらしい)


ヘモグロビンA1cの望ましい数値


・・・などなど




今までのことは事は別にしてこれからのお産を少しでも安全なものにするために


しなくてはいけないことはたくさんあった





実際、妊娠初期の1ヶ月で7キロの減量したあとは


産むまでに増えた体重はわずか3キロ・・・赤ちゃんの重さだけ


とにかく赤ちゃんのことだけを考えて努力と我慢を重ねた










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27「貧乏くじ」







でも、どうしてこんなに若く発病してしまったのだろう


そのことに付いても調べてみた




親族や親が糖尿の人は発病する確立はとても高く


糖尿病(以下DMと言う)の母親からは巨大児が産まれやすいらしい


3,800g・・・四キロ近くの大きさで産まれたわたしは


産まれた時からすでにその傾向があったのかもしれない





そして発病のきっかけは運動不足や過食などはもちろんなのだけれど


ストレスや流産や妊娠、出産・・・そう、まさにあの時期の流産や父からのストレスがきっかけ





五十代や六十代でなるのならまだあきらめもつくけれど


まだ、二十代だよ


妹はわたしよりもはるかに太っていて甘いものも大好きだ


でも、健康診断を受けてもDMの兆候は全く無いらしい


不公平だ・・・何だかわたしだけが貧乏くじを引いた気がしてならない












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28「焦燥感」









自分は間違った方向に進んでしまったんじゃないだろうかという


迷いと不安の日々







本当なら病気が判った時点で出産まで入院して


医師の下で厳格な食事や血糖値の管理をしなくてはいけないのだけれど


仕事だからと初めての里帰りを拒否された母や、ゴキブリ事件の義母に


長男を預かって欲しいとはいえなかった


保育園や託児所に預けることも金銭的に無理


入院を断ったことも、医師を更に不快にさせる一因になった






入院を断った上での自己責任の食事制限


そんな日々の中で


お手本のような毎日をハンコを押すように繰り返すのは難しい




朝起きて朝食お弁当をつくって洗濯に掃除


お昼からは長男と公園


夕食の買い物を済ませて家へ帰ると


すぐに洗濯を取り入れたりお風呂掃除をして入浴、夕食の準備と



動かなければ血糖値がどんどん上がってしまうという焦燥感で


食事の時間以外は座ることが出来なかった









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